2016年4月3日初出 約1420文字
朝の日差しにも、はっきりとした春の気配があった。
柔道で鍛えた筋肉のせいでかなりの暑がりである高井は、日常的に寒暖をあまり気にしたことはない。だが、周囲を見渡せば歩く人々の装いからマフラーや手袋が消え、上着も薄手のものに変わっている。
見上げた並木の桜にはまだ花の気配は薄かったが、これももうすぐ咲くのだろう。
期末テストの終わった今こそが受験勉強のチャンスだと、また朝から晩まで詰め込むばかりの勉強に追われる一週間が始まろうとしていた。
月曜の憂鬱に沈みかけた高井の心を、昨年の春に見た桜吹雪の思い出が少しだけ軽くしてくれる。
前方に目を遣れば、信号待ちで立つ人々の中に、見知った姿があった。
「中島!」
駆け寄りざまに平手でその薄い背中を打てば、心底迷惑そうな目が高井を見上げた。
中島の愛想がないのはいつものことだ。高井はそれを面白がって彼にちょっかいを出しているところがあった。
国立駅からまっすぐに伸びる並木道は、複数の学校の通学路になっている。立ち止まるふたりの右後方に、明らかに中島を意識して目線を投げてきている三人の女子がいた。近隣の女子高の生徒だ。
「あ、あの……」
小さなその女生徒の声には気づかず、青信号で歩きだそうとする中島の肩を高井が掴んで制した。
「何」
「いや、何って、この子が」
中島は仏頂面のまま、その女生徒を見た。どうやら知り合いではないらしい。
「あの、これ……」
紙袋を差し出したその手は高井が見ても分かるくらいに震えている。
学校へと向かう学生や駅へと向かうサラリーマンの目のある中、こういうことをするなんてなかなかに勇気の要ることだろうにと、高井はその小柄な女子の外見に似合わぬ積極性に驚き感心した。
しかしこの男はこういうことが好きではない――いや、はっきり言えば大嫌いなはずだ――と中島の顔を見れば、案の定、不機嫌さを隠しもしないで眉間に深い皺を寄せてスラックスのポケットに手を突っ込んだままだ。目元にはいつもよりも濃く寝不足の色が有る。
――こいつ、またプログラム作りで徹夜したな……。
これは不機嫌さも最高潮のはずだ。ただでさえ無愛想で女子に気の利いた対応などできないこの男のことだ、このままでは下手をするとこの子を泣かせてしまう。
「良かったな中島ぁー!!」
焦った高井は中島に覆いかぶさる勢いで肩を組むと、彼の右手を弾いて差し出させ、紙袋を受け取らせた。
「高井……!」
中島の鋭い眼が高井を睨みつけて来る。だが、こんな往来で彼女を追い込むわけには断じていかないのだ。
高井には目もくれず、三人の女生徒が喜色にあふれた足取りで走り去った後、中島もまた彼を置いて歩き出した。
「ちょ待てよ、それ何だよ、ほんっとお前無駄にモテるな?!」
今日はホワイトデーだ。中島が誰かにバレンタインのお返しを返すというのならまだ分かるが、なぜ彼が何かをもらう方になるのだ。
「……び」
数歩で追いついた高井に、前方を向いたままの中島が何か言った。
「ん?」
「……誕生日なんだよ、今日。だからだろ」
たいした感慨もなさそうに中島は言う。
「マジかよ!! 昼に購買行こうぜ、なんかおごってやるよ!」
「要らない」
「そう言うなって!! あ、お前それ絶対捨てるなよ? 食いもんだったら分けてくれよ」
昼休みにも放課後にも、下校時の校門でも駅でも。今日のこの日、何度も似たようなことが繰り返されることをまだ知らない高井は、のんきな笑顔で校門をくぐったのだった。