逢瀬

(初出 約6300字)





「中島くん、私のために、約束を守ってくれたのね」

 イザナミが祭壇の上にふわりと消えた時、中島の背後で弓子の声がした。彼女の声はあまり耳にしてはいないはずなのに、懐かしさで一瞬息が詰まる。
 はやる心とうらはらにゆっくりとぎこちなく振り返ると、潤んだ鳶色の瞳が中島をまっすぐに見つめていた。
 まだ弓子の蘇生を信じきれず声も出せないでいる中島に白い裸身を投げ出すように飛びついてきた弓子の勢いは少々強すぎて、中島は祭壇の側に倒れ込むようにして彼女をしっかりと受けとめた。

「中島くん、中島くんっ……!」
 初めは笑顔だった弓子だったが、しがみつくと思いがけず広かった中島の胸に安堵したのか、次第にその顔は強ばり、崩れてゆき、ぽろぽろと大粒の涙が流れだす。
「怖かった…、怖かったんだからぁ…っ!」
 子供のように無防備に泣きながら、甘く中島をなじる。
 ロキからの陰惨な凌辱と、小原によってもたらされた暴力的な死。
 彼女を苦しめたそれらの、そもそもの元凶である自分が彼女の復活の望みを叶えたからといって、赦してもらえるという自信は中島にはなかった。
 綾樫山で弓子と心を通わせ、気持ちを確かめ合えたと思いはしたけれど、その時間はあまりに短く、交わした言葉も少なすぎて、中島の確信は揺らいでしまっていた。
 ロキに弓子を生贄として要求された時には無自覚だった彼女への恋心は、今や抑えがたく中島の胸を焦がしている。その遅い初恋のもたらす怖れが、彼をかつてないほど臆病にしていた。

 だが、今、弓子は彼の腕の中に飛び込んで来てくれた。弓子はその行動で、雄弁に中島への想いを告げてくれている。
「…ごめん、弓子、ごめん……!」
 責めてくれることさえ嬉しくて、中島は弓子を強く抱きしめる。
 二度とは逢えないかもしれないと思っていた彼女の確かなぬくもりに、うつむいた中島の頬をこらえきれない涙が伝った。

 弓子の中にあった中島への淡い思慕は、イザナミの憑依をきっかけにイザナギへの想いの記憶を重ね得て、以前よりもはるかに強く確かなものになり、それは弓子に経験したことのない高ぶりと歓喜をもたらしていた。
 それは彼女に普段の慎みを忘れさせた。
 いつのまにか中島が自分を『弓子』と呼んでくれていることも嬉しくて、そんなふうに異性に触れたことも触れられたことも一度もないはずなのに、弓子は自分から中島の首に腕を回し、性急な動作で中島の顔を引き寄せると、彼の頬に自分の頬をすりつけ、彼の涙に唇を寄せ、自分がどんなに彼に再び逢いたかったかを伝えた。

 中島も、始めこそためらいがちにではあったけれど次第に夢中で弓子に応え、ふたりの涙は頬の上で、重なる唇の間で混じり合っていった。

 

 交わす口づけの合間の吐息が、香油の香り漂うイザナミの玄室を満たしてゆく。

――こういう、ことだったのか……。

 中島は女を知らないわけではなかった。
 昔から彼に近づいてくる女は後を絶たなかったし、潔癖すぎるというわけでもなかった中島は、近藤と京子、そして教諭の飯田を殺して実質的な高校の支配者になってからも、保身のために彼に近づいてきた何人かの女生徒の積極的な誘惑に乗ったこともあれば、面倒な時はその女生徒のするままにさせ、その身体を利用するだけのことさえあった。
 しかし性それ自体は女に対して冷めている彼にとっての重大な関心事にはなり得ず、時おり気が向いたときに肉体的な意味合いにおいてのみ後腐れのない行為を楽しむことはあっても、それ自体にも相手に対しても、その時々の肉体的な欲求と少々加虐的な嗜好が満たされるということ以外に、精神的な何かを感じたことなどかつて一度もなかったのだ。

 なのに今は、弓子の唇に触れているだけだというのに、愉悦の眩暈(めまい)に目を開けることさえできない。弓子の熱を感じているすべての部分から、ゆるゆると溶けていきそうな原初的な恍惚に、身体だけではなく、心もかつてない感覚に満ちてゆく。

――こんなにも『特別だ』と、はっきりわかるのか……。

 周りの友人たちが女に夢中になるのを愚かな事だと呆れていた、自分こそが何も知らなかったのだ。
 中島は、弓子という無垢な存在に、為す術もなく打ちのめされていくように感じていた。

 ゆっくりとついばむような中島のキスに身をまかせていた弓子は、ふと、背中に触れる彼の掌の感触で、自分が何も身につけていないことに気づいて我に返った。
 瞬間、身を固くして唇を離し、両腕で胸を隠して中島に背を向けてうつむく。
「…? 弓子?」
 中島は上気した顔で一瞬不思議そうに弓子を見たが、彼女の様子に彼もあらためて彼女が一糸まとわぬ姿であることを認識してしまった。
「あ、ごっ、ごめ…」
 彼らしくなく狼狽し、顔を反らして身体をを離す。
 しかし、玄室の床に散らばる香油の壺の破片から彼女をかばおうと左の脚の上に抱いていたために、充分には離れられない。弓子は弓子で固まってしまい、中島の上から動けずにいる。
 弓子の、恥ずかしがって身を屈める仕草が、豊かな長い髪と白い背中が、中島をひどく刺激した。中島は必死で床の壺の破片を数えて、動揺し反応してしまった心と身体を落ち着かせねばならなかった。

 数分の後、やっと少し気を取り直すと、中島は小さく気合いを入れるかのように呼吸し、着ていた下着代わりのTシャツを脱いだ。すぐそばで露わになる中島の素肌を見て、弓子が小さく声を上げる。
「いや、あ、あの、違うんだ! 汚れてるけど、これ…」
 制服のシャツはここに来るための道中で脱いで裂いてしまったし、今はこれしかないんだと、顔を反らしたまま中島が差し出してきたTシャツを受け取ると、弓子は小さな声で礼を言った。
 身を縮めてそれを着ると、彼女はさりげなく動いて中島から少し離れようとする。
 その手首を、中島がとっさに強く掴んだ。びくっと怯んでしまった弓子に懇願するように、彼は苦しげに言った。
「もう少しだけ、このまま…」
 イザナミがくれたこの束の間の時が、どれほどの時間なのかはわからない。
 けれど、女神はやがて君を迎えに使いを寄越すと言った。
 君とぼくは、一度離ればなれになってしまう。
 いつまた会えるのかもわからない、と。
 それから中島は一瞬言いかけた言葉を飲み込んだかと思うと端整な顔を朱に染めてうつむき、君と離れたくないんだ、と呟いたのだった。


 これまでの彼とは別人のような素直さや照れた様子を見せる中島に、弓子は思わず微笑んでしまった。
 緊張がほぐれて、そのまま彼の胸に背中を預けるように座りなおすと、弓子はまだ動けないままでいる中島を安心させてやりたくなって、そっと彼の腕に触れた。
 中島はおずおずと彼女の細い身体を包むように緩く腕を回してくる。
 彼の体温の残るTシャツからなのか、すぐ側にいる中島本人からなのか、先ほどまでよりも強く、彼の匂いが弓子の鼻孔をくすぐる。それはけして不快ではなく、なじんだ毛布のような安らかさを弓子に感じさせた。
 お互いの気配を感じ合うかのような、甘い無言の時が流れる。

 今の中島にならば聞ける。
 彼の腕に触れたまま、弓子は尋ねた。
 「中島くん…何が起こったのか、初めから、教えてくれる…?」
 あまりに多くの、しかも普通では起こり得ないことが、一度に起こりすぎた。イザナミの転生ということが関係しているのか、その割に自分は落ち着いているとは思ったが、事情がよくわからないことや、謎も多い。
 弓子は本人の口から、今回の事の顛末をきちんと聞き、事態を、そして中島という人を理解したいと思ったのだった。

 中島は痛みをこらえるような表情で少しの間沈黙していたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
 幼いころからコンピュータに興味を持ち、物心ついた時にはすでにかなり高度なプログラムを組んでいたこと。
 ある時魔術とコンピュータ理論の類似性に気づき、独学での研究を元に知的好奇心を満たすため、実行の当てはないまま、この数ヶ月間悪魔を召還するためのプログラムを作っていたこと。
 この春、ある女生徒に逆恨みされ、その女生徒の恋人である不良にひどい暴力を振るわれたこと。
 その復讐のため、完成間近だった悪魔召還プログラムを稼働させ、ロキに三人を殺害させたこと。
 そこから自分が十聖高校内である種の力を行使できるようになったこと。
 ロキに弓子を生け贄として要求されたとき、何故かとっさに拒んでしまったこと。
 結局拒みきれず、ロキを従わせる為に弓子を生贄にしようとしてしまったこと。
 ロキの実体化と小原の変貌、それに伴うクラスメイト全員の殺戮、そしてイザナミの弓子への憑衣はまったくの想定外だったこと。

 彼女に対しては隠しておきたいことがほとんどだったにも関わらず、中島は訥々とつとつと、正直にほぼすべてを語った。
 弓子という、これまで誰にも感じたことのない特別な気持ちを感じさせる存在には嘘をつきたくなかったし、また、この聡明そうな少女に嘘や保身のごまかしが通用するとも思えなかった。
 結果、客観的にこれまでを振り返りながら話すことになった中島の心には、自分はなんという子供っぽく身勝手な理由で愚かなことをしでかしてしまったのかと、恥ずかしさで身も縮むような思いがわきあがってきていた。それを弓子に見られ知られているということも、これまでの増長しきった彼であれば耐えられない屈辱と感じたはずだった。

 だが、自分が邪険にし、悪魔へのにえにまでしてしまった彼女の、我が身を省みぬ文字通り命を懸けた献身によって命を救われたことが、中島の要らぬプライドを春の雪のように溶かしていた。そして彼に、彼女にすべてを話す勇気と、自分の非をありのままに認める素直さとを新たに与えていたのだった。
 あらためてこうして語ってしまうと、自分が彼女にしてしまったことはやはりとても赦されるものではないという思いが強くなってしまい、中島はそれ以上言葉を発することができなくなり、それきり黙り込んだ。


 弓子もまた、言葉を失っていた。
 自分の経験したクラスメイトたちや小原教諭の異様な雰囲気、中島自身の態度や儀式での惨事から、ある程度の予感はあったものの、事実は弓子の想像を超えていた。
 中島は、殺人を犯していた。
 先の儀式でのロキによる大量殺戮は彼自身も予想していなかったようだが、初めのそれは明らかに違う。
 彼は弓子にも覚えのある残忍さと冷酷さで、明確な復讐の意志を持って、三人の人間の命を奪っていた。

 しかし、弓子が最も驚いたのは、そのことを知ってしまってもなお、中島に対する気持ちがまったく揺らがない自分自身に対してであった。
 死と復活という尋常ならざる経験は、弓子の、少し幼いところもあった精神を飛躍的に成熟させていたのかもしれない。また、イザナミの憑依によって弓子という器へと浸透した女神の知性と記憶は、弓子に正しく中島の類い稀なる天才とその特異性を、そしてその優れた資質を誤った方向へ突き進ませる最大の原因となったのが、衝動的な行動を抑えられず、特に怒りに対しては苛烈な報復を行ってしまうという、彼がイザナギであった前世から宿業として持つ欠点であったことを感知させていた。

 そんな女神に由来するイザナギへの愛ゆえの受容とは別に、弓子本人の直感も、目の前の幼ささえ感じさせるこの彼こそが本来の中島なのだと告げていた。
 弓子の心は、何処にも誰にも満たされぬ孤独を抱えて怖ろしい罪を犯してしまった彼を、その被害者であるにもかかわらず、その孤独と罪ごと抱きしめたいと、すでに思い始めていたのだ。
 冷たい無機質な眼差し。眉をひそめた侮蔑の表情。酷薄な笑み。拗ねた不満顔。やわらかな苦笑。哀しみにくれる泣き顔。屈託のない笑顔。
 まだ少ししか知らない中島の表情、そしてまだ知らないはずの顔までもが、弓子の胸に浮かんでは切ない愛しさをかきたてる。
 もはやイザナミの記憶は分かち難く弓子の中に在り、中島に重なるイザナギの既視感は奔流となって、弓子を混乱の中に押し流していた。

――もう、このひとを赦してる……。ああ、でも、私…? イザナミ様…?

 弓子は身体の向きを変えると、中島を見上げた。弓子は混乱する記憶と感情に足元が揺らぐような不安を覚え、すがるべき確かなものが欲しくて、懸命に言葉を紡ぐ。
「…電話をくれたの…中島くんだったんでしょう?」
「えっ?」
「昨日の夜…」
「ああ、ぼくだけど…」
 突然の弓子の言葉に、中島は面食らった。今さらその電話のことを聞かれるとは思ってもいなかったのだ。
「中山だって。すぐわかっちゃった」
 弓子は真剣に言い始めたのに、自分の心の重さが苦しくて、話を逸らし、ごまかすように笑ってしまう。
 彼女の母親に名前を聞かれ、とっさに中島の口から出た偽名は確かに何のひねりもなく、決まりが悪くて何も言えずにいると、
「ね…好き……? …私のこと……」
弓子は決定的な言葉で、さらに意外なことを尋ねてきた。
「な…、決まってるじゃないか!」
 中島は一瞬絶句し、思わず叫ぶ。
 こんなにも君を好きでなければ、君を復活させるために手を尽くしたり、ましてや命を懸けたりなんかしない。
 とても「好き」なんて言葉では言い尽くせないほどの気持ちを、君には感じている。
 君ももう、わかっているはずじゃないのか?
 そう中島は弓子に言いたかったが、自分が彼女に言える言葉ではないような気がして何も言えないまま、また沈黙してしまった。

 だが、ふと気づくと、弓子のさっきまでの笑みを含んだ表情は影もなく、彼女は思いがけないほど真剣な眼で、すがるように息を詰めて自分を見つめている。今にも泣き出しそうなのをこらえているようなその表情が、中島の胸を打った。

――ぼくがしたことは最低だ…。それなのに、この娘は…どうしてこんなにもぼくを、求めてくれている…?

 中島は、弓子が(はな)から彼の罪を問題にしているのではないことに気づいた。
 そして、自分が罪を言い訳にして、結果的にふたりの関係や未来の決定権を、弓子ひとりに背負わせようとしてしまっていたことにも。
 それは一見正しいようで、実は大きな罪かもしれないと中島は思い至ったのだったが、それは彼の持つ欠点のひとつである“無意識の狡猾さ”が、弓子の無垢な心によって解かれ、正された瞬間だった。
 それが中島という人間にとって、どんなに大きな精神の変革の一歩であるか、彼自身は最期の瞬間まで自覚することはなかったし、それを維持することもできなかったのだが。
 ともあれ中島は、弓子がひとりの女として、ただ恋した男の確かな言葉を欲しがっているのだと、そして自分の中途半端な態度が、男の自分が言うべき科白せりふを彼女にはっきりと言わせてしまったことを悟った。

――ぼくは、本当に、馬鹿だ……。

 中島はありったけの勇気を集めて弓子の頬を両手で包むと、間近にその瞳を見つめた。
 長いまつげに縁取られた、大きな瞳。華奢な輪郭。細い首。こんなにきれいな女の子だったろうか。
 これ以上、彼女にこんな悲しそうな顔はさせてはいけないと思う。彼女にだけは。
「…好きだよ、弓子……」
 中島は懸命に想いを言葉にする。弓子は、じっと彼を見つめている。
「君が思ってるよりも、多分ずっと、ぼくは、君を、大切だと思ってるよ……」
 弓子はそっと中島の手に自分の手を重ねると目を伏せた。その手を取り、胸の高さに捧げるようにあらためて握った中島は、弓子の爪が貝のように光るのだと初めて知る。こんな小さなところまできれいだと、彼は心の隅で思う。
「これからも、ぼくのそばにいてくれないか……」
 額を合わせるようにして囁くと、弓子は静かな涙をこぼし、小さく肯いてくれた。その涙を唇で受けて、中島は彼女をそっと抱きしめる。
 イザナミの使いなど、永遠に来なければいいと願いながら。

 

 

 

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