(初出:2009年12月黄昏階段 約5350字)
「だめだ、それは許せない」
白鷺を生贄になんてできない。
慎重に相対し、駆け引きをせねばならないはずのロキに、中島は思わず叩きつけるように叫んでいた。
白鷺弓子。
時期外れの転校生だった。そう、確か6月。先月初めのことだ。
ロキの力を借りて近藤と京子、そして小うるさかった飯田教諭をことのついでのように血祭りに上げて以来めったに教室にいることのなかった中島だったが、たまたま居合わせた朝礼でそういえば担任が何か言っていたような覚えがあった。そして左斜め前の席に、見慣れない女生徒が座ったような気がする。
一度集中すると寝食を忘れ、興味の対象以外何も見えなくなる中島にとっては、その席に誰が座ろうともどうでもいいことだった。その席が以前から空いていたかどうかさえ、実のところ覚えていないくらいだ。
初日にしてその転校生のことは、ずっとハンドヘルドコンピュータでのプログラミングに没頭していた中島の意識の外側を流れ落ち、遠ざかっていく雑事に過ぎなかった。
小原の古文の授業中、偶然なのか、その女生徒がわざわざ振り返り自分のほうをまっすぐに凝視していたこともあった。その後、話しかけにきたのではなかったか。
中島は、弓子とのその時の短いやりとりを思い出そうとした。
可愛らしさのほうが勝っているとはいえ、弓子はかなり美しい少女だった。だが、中島は弓子と視線を交わした時も、話しかけられた時も、まるで心を動かされるということはなかった。
お前より整った顔立ちの女もめったにいない、お前の彼女になるやつは大変だよ、と、かつて友人の高井にも苦笑まじりに言われたことがある。
そんな自分の顔を見慣れているということもあるのだろう、中島は表面的な美にはまるで無頓着なのだった。
母譲りの女性的な顔立ちと中性的な肢体で独特の雰囲気を持つ中島は、十聖高校の選抜クラスはもとより、一般クラスの女生徒から通学時に見初められたのか他校の女生徒まで、プレゼントや手紙をもらったりだの告白されたりだのはけして珍しくなく、果ては通勤中の社会人女性にまで秋波を送られることもしばしばで、正直積極的な異性には辟易していたくらいだった。
他人から見つめられるということにも慣れていて、中島は、その時も自分は適当に白鷺をあしらったのではなかったかと、あいまいな記憶をたぐった。
物心ついたときから意識の芯はいつも醒めていて、誰にも、何にも、強く心動かされたことも興味を持ったこともなかった。ただ、魔術書と、プログラミング以外には、何も。
なのに。
――どうしてぼくは、白鷺をかばおうとした……?
この転校生はロキの催眠暗示の影響下にないこともあってか、好奇心を隠そうともせず、生贄の儀式に大胆にも忍び込んできた。
周囲の人間すべてが自分を畏怖し従う状況の中、久しぶりの“新鮮な観客”を得た、というくらいの感覚でしかなかったはずだ。
純情そうな女生徒に、悪魔ロキと小原の情事を見せつけてからかい、自分に余計なちょっかいを出さないように思い知らせようとした、ただそれだけのことだったはずだ。
中島には、どうして自分があの転校生を生贄にすることを反射的に拒んだのか、我が心なのにもかかわらず、まったくわからなかった。
ロキを怒らせるわけにはいかず、気圧されるように結局それを承諾してしまったのだったが、中島は音声入力装置を握りしめたまま、ロキが去ったあとのディスプレイと無音のスピーカーの前から動けずにいた。
耳の奥に、かすかなノイズだけが伝わってくる。
荒い息を吐く彼の唇は、まだ震えていた。
あいまいな記憶からは思いもよらぬほど鮮やかに、弓子のイメージが脳裏にふと浮かぶ。
「くっ…」
不意に痛みのような、切なさのような未知の感覚に襲われ、思わずきつく目を閉じる。
消える弓子のイメージを思わず追った中島は、足を踏み外しでもしたかのように、再びの幻視世界に墜ちていった。
ひたすらに走り続ける、自分と同じ顔をした青年。
いったいどれほどの距離を走っているのか、束ねられた髪は乱れ落ち、唇は乾き切れている。汗に砂埃がまといつき、白いはずの肌がうっすらと周囲の岩肌と同じ色を帯びている。
後ろに流れてゆく自分の荒い息の音が大きく響く。
それが途切れるほんのわずかな瞬間に、かすかな喘ぎと追いすがる小さな足音が聞こえてくる。
青年はその背後からの音に怯え、感覚を失いつつある両足を、ただ意思の力によって無理やり動かしているようだった。
だんだんと近づいてくる喘ぎはいつしか嗚咽に変わり、走る青年の顔に刻まれる苦悶の表情は深くなっていく。その声は青年への愛を語っているのに、彼は止まりも聞きもせず、ひたすらに逃げて行く。
「イザナギ……」
かすれた喘ぎに混じる己の名が耳を打つ。青年は苦しげにいっそう眉根を寄せた。
青年を追う女は疲れを知らないようで、徐々に青年との距離を詰めてくる。その女はもはや人としての原型をとどめてはおらず、腐乱してゆく肉を引きずり、落とし、崩れながらなおも彼を求めて骨ののぞく腕を伸べていた。女からにじみ出る愛と未練の気配とはうらはらに、青年の心には、ただただ死者への怯えと恐れしかなかった。
やがて青年は果てしなく続くかに思われた暗い坂道を抜け、葦の生い茂る豊かな湿原に転び出た。足が濡れ沈むのもかまわずに、丈高い茂みを手にした剣でかき分けながらに大股に踏み込んでゆく。
「トヨアシハラ」
茂みを抜け、光を受けてやわらかに光る浅瀬にたどり着いた青年が傷ついた唇でつぶやき、顔にはあからさまな安堵が広がる。中島にも、そこが青年の求めていた場所だったとわかる。
葦原の、まほろばの、中つ国。彼が住み支配する世界。
黄泉の国から現世へ辿り着いたことで落ち着きを取り戻したのか、青年は初めて身体ごと振り返り、切れ長の瞳に女への哀れみをにじませたが、その感情を断ち切るように、巨岩をもって、駆けてきた坂と湿原との境を、その女ごと封じたのだった。
「許せ、イザナミ」
くいしばった歯の間から漏れるのはもう独白に等しいのか、なおも思いを告げる女の叫びには応えず、青年はひたすらにその言葉を繰り返していた。
「…ッ…!」
次の瞬間、また墜ちるような感覚に襲われ、びくりと身体を震わせて目を見開いた中島は、眼前に先ほどとなんら変わらぬ、静まり返ったCAIルームを認めた。
ロキとの対話中に真夜中を過ぎていたのは覚えていたが、ひどく長い間幻視を見ていたような気がする。腕時計を見ると、針は午前1時過ぎを示している。
中島はひとり暗い教室の中で、目の前のディスプレイに映る憔悴しきった自分と目を合わせた。
――イザナギと、イザナミ…?
日本の始祖兄妹神の名だ。
どうしてイザナギと呼ばれる男が、自分の顔をしている?
夢というにはあまりにリアルで、逃げ走り続けた幻視の中の青年のように全身に疲労を感じ、中島は大きく肩で息をしていた。いつの間にか額に汗がにじんでいるのは、夏の夜の暑さのせいだけではなかった。
逃げるイザナギ神とそれを追う死したイザナミ神の神話は、あまり日本の古典文学に詳しくない中島でも知っていた。ギリシャ神話のオルフェウスの話とよく比較される、有名な話だ。
ヒノカグツチ神を産んだ時の傷が元で黄泉へと神避った妹を迎えに行くも、約束を破り死者の国の禁忌を犯し、彼女を取り戻す術を永遠に失い、憎みあう誓いを立てた兄の話。腐った屍になりはてた最愛の女を忌み厭い、穢れとして必死に振り払う男の話だ。
これまでに二度、この幻視を見ていた。一度目は小原をロキに捧げたあの夜。そして今日。
こんなことはこれまでにはついぞなかった。
いったいこれは、何なのか…。
――白鷺……?
そうだ。あの儀式の夜、彼女の瞳に吸い込まれるようにしてこの幻視が始まったのではなかったか。
弓子のことを考えたとたん、中島の心の中に、どうしようもないほどの後悔に似た気持ちが広がった。
――なんだ、この気持ちは。ぼくは何もしていない!
ロキの要求に、弓子を生贄にすることを承諾はした。だが、まだ、彼女に何をしたわけでもない。
その生贄の儀式にしたところで、イメージの中でロキに抱かれるだけのことだ。身体が傷つくわけじゃない。そんなにたいしたことじゃないはずだ。小原以外にも何人か生贄にした女生徒はいたが、嫌がるのは初めだけで、皆うっとりと次を心待ちにしていたくらいだ。
中島は、女なんて所詮、そういう快楽に弱い生き物だとすら思っていた。侮蔑にも近い感情だったかもしれない。実際中島は、女をロキに捧げることに遠慮や抵抗、ましてや後悔を感じたことなど一度もなかった。あの会ったばかりの転校生を生贄にすることに、本来ならなおのこと、何の躊躇もないはずなのだ。
なのに、いつの間にか心には、取り返しのつかないことをしてしまったという苦い思いが後から後からわきあがってくる。
その気持ちが果たして弓子に対してなのか定かではないままに、中島は、幻視で見た青年のように、どうか許してくれと走りながら叫びたいような、切迫した焦りと苦しさを感じていた。
中島は初めての感情に、混乱し始めていた。
その後ぐったりとした足取りで帰宅し、シャワーも浴びずにベッドへ倒れこんだ中島だったが、その夜は結局、一睡もできなかった。
身体は疲れきっているのに神経が異様に高ぶり、何かに追われているかのように胸を打つ鼓動が早いままで眠れないのだ。
『何かを怖れているのね……』
無理やり眠ろうと目を閉じても、何故かあの、自分を見つめる転校生の顔が浮かんでくる。彼女の少し鼻にかかったような声が、耳の奥に響く。
――あの幻視から感じるものはかなりネガティブなものであることは間違いない…。
…ぼくは、何かを怖れている?
目下中島が“怖れている”とすれば、それはロキの実体化についてであった。先日小原の上に発生した気体は、ISGのクラフトの分析からも、ロキのものである可能性が高いと診断されている。
しかし、それは彼自身も認めており、意識化されている。それならば、幻視にロキかあるいはロキにつながるものが出てきてもおかしくない。
――確かに、ロキに対する不安がないわけじゃない。
だが、あの幻視の感触も色彩も、ロキのイメージとは合わない……。
魔術書や神秘主義の作者の手による書物を数多く読み、夢や無意識に類するものの力やその重要さをよく知っていた中島は、ベッドの上で目を閉じ、手を組み息を整え、あの幻視を無意識からの警告として読み解くべく考えをめぐらせていた。
だが、幻視のイメージとロキのイメージ、そのふたつを重ね合わせようとしても溶け合わず霧散し、一向に次の手がかりとなるイメージが浮かばないのだ。
――違う。ロキじゃない。
中島は自分の心が紡ぎ出すイメージをつかむべく、さらに深く集中した。自分でさえ知らない何かを、あの幻視は伝えようとしているはずなのだ。
中島は深い瞑想状態に入った。意識を手放し、心を自由に遊ばせ、記憶や連想の中を、泳ぐようにたどってゆく。
その男は、タブーを犯して妻を失い、変わり果てたその妻に追われていた。
追われていた男の顔は、自分だった。
タブー…禁忌。悪魔を呼び出したこと? それともあいつらを殺したことか?
“死体”に追われる恐怖は、後悔と罪の意識の具現か…?
いや…後悔などしていない。あいつらには当然の報いだ……。
悪魔を呼び出したことも、あれは『偉大な成功』だ……。
あの死体はイザナミ…妻……。
あれは…「特別な女」を失うことを暗示している?
ぼくには特別な女なんていない……。
……女?
――白鷺……?
思わず中島は目を開いた。
さまざまな想念をたどった末に、またしても心に閃いたのはあの転校生の面影だった。
わけのわからなさに髪をかきむしり思わず舌打ちした中島だったが、衝動的に出た言葉とも、幻視の示すものはぴったりと一致している。中島の直感は、彼女が何らかの形で彼にとって重要であることを感じ取っていた。
――白鷺を生贄にしてはならないということか…?
しかし、今ロキの機嫌を損ねるわけにはいかない…。いったいどうすれば……。
夜明けと共に白々と明るくなってゆく天井を見つめたまま、中島は長いこと動けなかった。
中島が何度もためらいながらも中山と名乗り弓子に学校を休むよう電話をかけたのは、この日の夕方のことであった。
結局その中途半端な忠告は功を奏さず、弓子はそれには従わなかったし、彼自身もロキの要望をはねつけることはできなかった。
ふたりを真の出会いへと導く運命の輪は、この時、既に回り始めていたのだ。
弓子を失うことそのものが彼にとって重要な鍵となることを、中島はまだ、知る由もなかった。