【再録】Debug n' Hug

(初出:2013年4月黄昏階段)
(2013年7月加筆修正  約4350字)




 

 中島の指がキーボードを叩くリズミカルな音が、静かな午後の病室に響いている。

 昨日から彼は日中ずっとコンピュータで何か作業をしていて、夜も弓子が寝入るのを待って起き出し、続きをしていたようだ。物音で眼を覚ました弓子が寝過ごしてしまったのかと思い何時かと尋ねると、彼は起こしてしまってごめんと謝りながら、午前4時前だと答えたのだった。
 それからは一緒に眠ったのだったが、中島はまた朝からずっとその作業をしている。昨夜少し聞いたのは、フィード教授からの頼まれごとだということだったが、そんなに急ぎのものなのだろうか。

 中島は弓子が驚くほどの集中力で、もう夕方になろうかというのにほとんど休憩らしい休憩は取っていない。昼だって弓子がいたから食事をしたようなもので、彼自身は食べることすら忘れていそうだった。
 英語が苦手らしく、「ね、弓子、"duplicate"ってどういう意味か知ってたら教えて?」などとときどき英単語の意味を聞いてくる以外はほとんど声も発しない。
 仕事がはかどるのか、ステレオで低く弓子の知らないロックを流していて、ときどきキーボードを叩く音が曲のリズムに合わせて机を叩く音に変わり、そこにかすかな鼻歌が混じる。しかしそれは休憩というわけではなさそうでぶつぶつと何やらつぶやく時もあって、それは考え事をしている時の彼の癖のようだった。

 なんだか難しそうなことをしているみたいだし、考え事を邪魔しちゃいけないしと話しかけることもはばかられて、弓子は昨日に続いて今朝からもずっと、中島に相手にしてもらえず寂しい気持ちを持て余していた。
 眼の回復の見通しが立たない今、手持ち無沙汰な時間も多い弓子は点字の基礎を学ぶのにカセットテープでテキスト音声を聞くことなどもあったのだが、今日は中島がいつ仕事を終えるのかが気になってしまって、まったくそんな気になれないのだった。

「よしっ、と…」
 ひときわ大きな音でキーを叩いたのをしおに、中島が大きく息をついた。
「……終わったの?」
「ん? うん、なんとか、ね…」
 かなり凝ってしまったらしい首や肩を鳴らしながら答える中島の声にはさすがに疲れが滲み、それは彼に常にはない気怠さを与えていた。
「フィード教授の?」
「んー、正確に言うと、教授の研究室の学生の、かな。…自分でやれっての。ねぇ?」
 それでも苦笑しながら言う彼の声は、一仕事終えたせいなのか明るい。
「研究、室…?」
「うん、MITの」
「…『教授』って、ホントに教授だったの?!」
「…あれ? ぼく、言ってなかったっけ?」
 弓子はてっきり、彼はアメリカ政府の職員か関係者か何かで、日本語も上手くもう日本に長くいるような感じだったし、中島と関わることが大学の研究と関係があるとも思えなかったし、『教授』というのはあだ名か何かだと思っていたのだ。まさか本当に、しかもマサチューセッツ工科大の教授だったとは。
 弓子がフィードに会った時にはもう眼は見えなくなってしまっていたし、その外見のイメージからというわけではなかったのだが、話し方ににじみ出る知的さや物腰に漂う鷹揚とした雰囲気と、中島から聞いていた、この病院はアメリカ政府との関係が深いところだという話などから、そういうあだ名の人なのだと思い込んでしまったようだった。


 中島の所属するISG(International Satanist Garden)の、彼こそが創始者であること。
 例の事件の際も、中島によるISGへの通信の痕跡からいち早く事態を把握し面会に来てくれたこと。
 悪魔について造詣ぞうけいが深いことはもちろん、コンピュータについても卓越した専門家であること。
 彼はいわば中島にとって偉大な先達のような人であり、中島の頭脳と技術を理解し評価できる数少ない人間であること。
 中島を罪人として糾弾するのではなく、保護・支援を与えてくれた上で罪を償う場を与えてくれていること。
 セトに捕らわれた弓子を奪還するのも、彼の力がなくては不可能だっただろうこと。
 今現在微妙な立場の自分たちがこの病院にいるのも、アメリカ政府の保護下にあるのも、すべて彼の尽力によるものであるということ。

 初めて聞く話に驚きながらも、すぐに弓子は持ち前の好奇心で中島にいろいろとフィードについて尋ねてくる。彼女にとっては辛い記憶につながることでもあろうと慎重に言葉を選びながら、それでも弓子に聞かれるままに、中島はフィードと自分との関係やこれまでの彼との行動などを改めて話していった。

「…そういうこと、だったの……」
 思っていたよりもフィードは自分たちにとって、特に中島にとっては重要な人物であるらしいとわかり、弓子は一高校生にすぎなかった自分の置かれた現在の特殊な状況を改めて思い、深いため息をついた。
「うん…ずっと、あれこれ助けてもらってる。いつの間にかぼく、弟子ってことにされてるみたいだよ。それで、ときどきこうやって、仕事の依頼が来るってわけ」
 中島にもフィードに対しやはり親しい感情があるらしく、彼自身気づいているのか、その声には彼には珍しい気安さがあった。
「私が思ってたよりも、ずっとすごい人だったのね…。昨日からしてた仕事って、レポートの採点のお手伝いとか、そういう感じなの?」
「んー、どっちかというと、プログラムのチェックと改善、かな。デバッグってわかる?」
「……わかんない」
 個人所有のコンピュータなど珍しかったこの時代、学校の授業以外ではまともにキーボードに触れたこともない弓子にわかるはずもない。当然ふるふると首を横に振る弓子に中島はだよね、と笑い、説明してくれた。
「簡単に言うと、プログラムの間違ってるところとか、重複してるところなんかを直してるんだ。プログラムがきちんと動くかどうか検証して、修正とか調整をしてる。教授が、本人がやってたら雑誌の応募締切に間に合わないから手伝ってくれ、ってさ…。こういうことができる人工知能なんかもあるはずなんだけど、今ちょっと他のことで使ってるらしくって……。
 昨日の朝連絡が来て、『できたら明日の夜までに』だよ? いくらなんでも、ひどいと思わない?」
 そもそもプログラムのなんたるかも知らない弓子である。わかったようなわからないような気持ちになったが、とりあえずMITの研究レベルが世界でもかなりの水準にあることくらいは知っている。そこの教授であるフィードからの仕事をあっさりと請け負える中島が、コンピュータにかけてはかなりの能力があるということだけは理解できた。
 それに今の話だけ聞いても、フィードがつまり、このプログラムを作った本人である自分の研究室の学生よりも、中島のほうが優れていると思っていることは確かなようだ。中島本人の声には得意気な様子は微塵もなく、それがかえってこの分野における彼の突出した才能を示しているように感じられた。

「…朱実くんって、コンピュータ、世界的にすごかったんだ……」
 彼のその才能故にいくつもの不幸に襲われたというのに、弓子はまったくそのことを意識せず、不思議なほど素直に感心していた。
「いや、そんなことないよ。まあまあできる、くらい。ぼくくらいのレベルのやつは世界にはたくさんいるし、ぼくももう、ピークは過ぎてる」
 驕りも謙遜もなく、淡々と中島は語る。
「ピーク?」
「そ、能力的なピーク。数学とかこういうジャンルの才能のピークは12、3歳くらいじゃないかって言われてるんだよ。ぼく自身もそうだった気がするな…。いや、もしかしたらもう少し下だったかも」
「…そうなんだ……」
「もちろん、年齢と共に向上する部分もあるとは思うけどね。ただ、毎日進歩する世界だから、若い方が適応が早いし有利なのは確かだろうな。一番大事なのはひらめきで、それはそのくらいの年齢のときにすごく優れてるみたいだね。先入観とか思い込みとか、そういうのがないのがいいってことなんじゃないかな」
「ふぅん……」
「フィード教授が政府との折衝せっしょうなんかで忙しくて手が足りないから、今後もときどき、いろいろ手伝ってくれってさ。バイト代もくれるって。弓子何か欲しいものない?」
 こういう話は弓子には退屈だろうし、辛い記憶を思い出させてしまうかもしれないと、中島はやんわりと話題を変えた。本来なら警察に捕らわれるか路頭に迷うかするところだった自分に惜しみない援助を与えてくれるフィードに対し、中島は弓子を守るためにもできることはなんでもすると自ら申し出たのだったが、それは内緒だ。明るく軽い口調で言い、考えておいてと、カタカタと再びキーボードを叩く。

「まだ、お仕事、あるの?」
「いや、あっちに送って、おしまい」
 暗号化して電話回線で送信するべく、画面から視線を動かさないまま定められた手続きをたどる中島の背後、弓子はそっとベッドを降りると、裸足のままで音のする方向へと進んだ。彼のいる机の位置は把握している。そろりと伸ばした手で静かに椅子の背に触れて場所を確かめると、少しためらった後、弓子はそっと中島の肩に腕を回した。
 予期していなかった弓子の行動に一瞬びくりと驚いた中島は、「危ないよ、歩いちゃ」と小さく言うと、その腕に触れた。弓子は何も言わないままその腕に力を込めて、中島の頭を胸に抱くようにぎゅっと抱きしめる。ああ、と中島はそこで初めて、この作業に費やした時間に思い至った。
「ごめんね、朝から…昨日からか、ずっとほったらかしだったね」
「…うん」
「教授にはお世話になってるからさ、ときどきこうして仕事請けるけど、ごめんね……」
「うん…」
 こんなふうに甘えてくる弓子は初めてで、中島は何やらくすぐったいような、落ち着かない気持ちになった。

 突然のことにに加えて急ぎだったせいもあってつい集中しすぎてしまい、彼女をかなり寂しがらせてしまったのだろう。プログラミングに集中すると寝食を忘れる自覚はあっただけに悪かったと思いながらも、こんな弓子を見られるならときどきはいいかもなどと不埒なことを思い、つい微笑んでしまう。
 彼女の手を引いて膝の上に座らせると、中島は自分に身体を預けてくる弓子の、包帯に覆われた顔を間近に見つめた。常らしからぬ自分の行動に、彼女のほうも頬を染め、落ち着かな気にうつむいている。
 珍しく耳の後ろで長い髪を緩くひとつにまとめているのがふと目に留まる。弓子のまっすぐな髪がもったいないような気がして、中島はふわふわした飾りのついたヘアゴムを滑らせて外した。しかし眼の前の白い首筋が隠れてしまうのも嫌で、するすると指の間を通ってゆく感触を楽しみながら豊かな髪をもてあそぶようにして、自分から遠い方の肩へと流す。その髪は、窓から差し込む夕日の気配を含んだ光を反射して艶めいた。
 
 焦れた弓子が遠慮がちにキスをねだってくるまで、いつしか中島は時を忘れ、そのやわらかに揺れる水面のような光に見惚みとれていた。

 

 

 

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